今がくらいのは死後くらいから
ハイデガーは私たちのつまらない心
【退屈】を3つに分けて哲学しています。
今日は第2の退屈から
「仕事を中断して人の家に客として招待され、ワインを楽しみ、
談笑し、深夜になって帰宅して、出掛ける前に中断した仕事の前に座ると、
ふと――楽しかったけれど、あれはやっぱり、ほんとは退屈していたのだ――
という思いが脳裏をかすめる」
私も学生時代、レポートがたまっていたのに友達から
コンパの誘いをいけていったことがあります。
酒とカラオケで盛り上がっているときはレポートなんて
忘れてしまい、遊びに熱中しているのですが、
終わって、下宿にかえって机の上に積んである
やりかけのレポートを見ると
ああっとうんざりしてしまう。
その時ふと思ったんです。
酒のんでカラオケをうたって楽しんでいたのは
やっぱり、レポートが嫌なのをごまかしていただけなんだ
あの楽しさはやっぱり退屈だったんだと・・・
そんなこと
おもわねー
酒とカラオケはたのしいよー
という人もあると思います。
しかし、
松尾芭蕉は
「おもしろうてやがてかなしき鵜舟かな」
という歌を残しています。
岐阜県長良川の鵜飼は有名です。
松明のかがり火に照らされて
鵜匠にたくみにあやつられる鳥たちの
姿は圧巻です。
ところが、それも終わってしまうと
「やがてかなしき」
となってしまう。
あんなに「おもしろかった」のに
やがて・・すぐに
かなしき・・つまらなくなってしまう
と芭蕉は歌っています。
文化祭の準備の時わくわくして
泊まりがけで準備した。
おわってかたづけのため道具を壊す。
そのときあの、熱狂はなんだったのだろう
とおもいっきりブルーになる。
そんなことならわかると思います。
実はすべてのたのしみにそんな
退屈がつきまとっていることを
ハイデガーは指摘しているのでしょう。
★うれしさをむかしは袖につつみけり
こよいは身にもあまりぬるかな
(蓮如上人)
無明の闇がはれないまえは
どんな喜びも袖に包むような
儚いものでしかなかったが
弥陀の本願によって
無明の闇を一念で破って頂いた
今は、体からあふれ出る喜びでいっぱいです。
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